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~徒然なるままに日々の雑感を~

発見しやすい立場にある者の中に医師や弁護士などと並んで「学校の教職員」を挙げ

 昨日、渋谷能楽堂にて狂言と能の鑑賞。野村万作・萬斎親子『宗論』、櫻間右陣『当麻』。いずれも昨今観た中で、よい舞台だった。

以下のコメントはただ周辺的な、そして些細なことを。

例えば『当麻』の中に「たづきも知らぬ山中に」という箇所がある。字面だけ追うと、つい「さんちゅう」と呼んでしまったが、地歌が「やまなか」と歌い上げるのを聴いて、確かに、音で理解していた昔の名残というか、日本語の特性からすれば、ここは訓読みがよいのだろうと、今さらながら得心した(真実は違うのかもしれないが)。

能ではかつてありし人物が霊となって登場することがよくある(というかほとんどか)。そのような舞台を見る上で欠かせないのが「照明」だ。
気になる子どもの「呼び名」事情をアンケート結果から見てみましょう
しかし明治期の文明化の過程で、能舞台は欧米の文化(歌劇場)に倣って、室内空間へと閉じ込められた。問題は室内でどのような「照明」を行なうのかである。

カギとなるのは「遊び込む経験」にありました 現代では、謡本を読む観客のために客席も適度な照明がある。これがまず第一に舞台への意識を遠のかせるのでよろしくない。

第2に舞台も照明が煌々となって陰ができないようになっている。これがまた能の物語世界への飛翔を阻害する大きな要因だ。

現代の薪能においても、照明は薪だけでなく、ライトの補助がつく。谷崎が『陰翳礼讃』で慨嘆したように、陰翳のある空間を嫌う聴衆の好みに合わせて、光り輝く!?舞台になっている。

無表情を能面とも言うが、実は豊かな表情を表わすのが能面だ。それが最も効果を発揮するのは火によるものであれなんであれ陰翳が付くときである。その魅力を現代の能舞台はひたすら奪ってしまっている。

むろん演者からすれば、そんなことは百も承知であると思われる。分かっていながら、いまだハリウッド映画のような陰翳をつけない舞台照明で事足れりとしているのであるから、問題ではないか。

古典芸能の魅力は汲めども汲めども尽きぬ泉のようなもので、それを活かすことをもっと考えるべき時ではないだろうか。

ちなみに先の文科省の調査研究会議報告書では 魅力を伝えるには、かえって古の方法に学ぶ、原点に返ることも重要である。

原点はどこに定めてもよい。各人各様の考えに基づいて、原点は様々であってよいはずだ。

ただ能は明らかに中世的なものである。中世のイメージもまたさまざまあろうが、近世の明るい文化と対比されて、陰翳がより際立った世界でもある。加藤唐九郎が言うような暗さ(黒樂茶碗がそうであるような)が中世には付き纏う。

その陰陽というか彼岸と此岸の明白なる対比と相互浸透とに幽玄なる世界が生まれ出るのであれば、能舞台には「陰」がなくてはならない。照明によるのであれ、なんであれ、陰が重要である。

ソニーの世界遺産番組のCMでは、薪だけの能が映し出された。その折の能面の表情の艶やかなる、陰翳ある姿。あれをこそ生で観たいものだ。

子どもの「前向きな発想」引き出すリフレーミング[やる気を引き出すコーチング]

有名ブロガーの池田信夫氏の書いたセロリー(Selery) ジャケット グレー 13号 S-24709 1着(直送品)をはじめ、最近のツイッターでも、彼は反原発・脱原発の動きはカルトだとして批判している。

自動車と航空機のどちらが安全かといった有名な話については、リスク評価の在り方でどちらが安全かどうかは決まる(一般的には自動車の方が危険だが、こちらを参照)。

池田氏の上の論考に対しては、こちらの方の批判でほぼ尽くされているように思われる。

リスクに対して便益が上回るというのが原発正当化の根拠である。しかし原発の便益なるものが、よりリスクの低いもので代替可能である点で、これはなんら正当性をもつものではない。

正当性があると思っているのは、現在のエネルギー情況を前提にして、それを変えないというところから出発しているからだ。

また原発に関しては、軍事的な原子力利用と関連して、それが国際政治におけるヘゲモニーを得るための有効なカードであるがゆえに原発を手放すべきではないという議論もあるが、これは本末転倒だろう。

エネルギー政策は政治判断、単にやる気の問題に過ぎない。そのやる気がどの方向に向かうかは理念の問題である。理念なき政治にはかじ取りはできない。原発推進を行なってきた自民党にもその気概はないように見える。。。

また原発と自動車のリスクの比較については、オフィス 事務服 制服 BONMAX(ボンマックス) ワンピース LO5707 サイズ17号・19号も参考になる。

そもそも原発の場合は、保険が適用されないことからして(もちろん原発の保険はあるが、そのカバーされる額は微々たるものでないに等しい)、リスクではなく不確実性の領域に入る問題であり、その意味で、リスク評価がそもそもできない代物でもあるとも言える。

リスクがあるかどうか、安全かどうかを死者を規準にして語る傾向は浅薄である。村上陽一郎氏が以前、原発で死者は出ていないのであり、安全なんだと力説しておられたことに驚愕した覚えがあるが、放射線に関しては、原発周辺への人的環境的影響を考慮に入れないといけないだろう。

しかも「ただちに健康に影響はない」と3月以降繰り返されている文言に表されているように、長期間の低線量被曝の実態は、敢えてかどうかわからないが、マイナーな研究者以外、手を出していない。

放射線治療の線量を持ち出して、現在の状況は安全だという主張も、放射線による人体への影響の点で、まったく異なるレベルの問題であるから、的外れである。

東大SPHのフォーラムでも指摘されていたが、放射線の人体への影響については閾値があるかないかをめぐって対立した立場がある。どこまでの被曝ならば安全だということが言えないという立場と、どこまでの被曝ならば安全だという立場との対立である。

こうした二つの立場があることからして、放射線の影響というのは未知数ともいえる部分がいまだにあるということであり、そうすると、安全基準というものは、もっと慎重に定められる必要がある(なお、上のフォーラムでは、扶桑 マジックカットe−ミスト3軸アトマイザEM3−AT−S60S60cm付 EM3-AT-S60こちらでの発言が重い問題提起をしている)。

健康被害(一生、その傷を負って生きていかざるをえないような状況)が起きてから、規準を定めた時には分かりませんでしたで済む問題ではない。

正直、考えがまとまらないが、備忘録として。。。

機能していることに焦点をあてて質問をしていきます

勤務先の一つでも、一律に冷房の停止措置がとられている。15%の削減要求に従って、必要の有無も考えず、悪平等的に節電節電の大合唱である。

いま、節電を叫び、節電に取り組んでいるところは、なぜ今までやらなかったのか。それはやる必要がなかったからだろう。必要を感じなかったからだろう。今節電に取り組むのは、やらないといけないらしいという状況にあるからに過ぎない。

その点で、原発の停止が電力不足を招くから節電というのはまったくもって浅はかだ。電力が足りる情況になったら節電をやめるだろうから。

電力の安定供給が至上命令だった「はず」の電力会社にとって節電を呼び掛けるのは「矛盾」だろう。

電力需要を、生活という視点から考えて、必要なものとそうでないものを明確化する必要がある。

こんなご時勢ですからという俗耳に入りやすい言葉ほど危険なものはない。いままで、こうした「仕方なし」の態度が、人の人生を、なし崩し的に翻弄してきたからだ。

脱原発などの電力供給源の問題を議論することも重要だが、電力需要の側面をも一体に考えて今後のエネルギー問題を考えていく必要がある。

こんなふうにパソコンを使っている生活の見直しもしていかないといけないだろう・・・。
小学校以降の本格的な学習に移ったときにも「自分で考えてみよう!」「挑戦してみよう!」という学習意欲につながると考えられています
 録画していた日曜日の梅棹忠夫の番組を観る。梅棹の残した未完の書の末尾にある「暗黒の中の光明」をめぐるドキュメント。

番組中、東電社長とのやり取り(民俗学の観点から、安全と思っていても、人間はかならず予想外のことを起こしてしまう)など興味深い。

知識を求める人間の業ゆえに、人間は繁栄を築いた文明によって自らその生存を危険に晒している中、彼はどこに「光明」を見たのか。

番組の編集方針、そして山折氏ほかのコメントが、梅棹の問題意識とずれているのか、あるいは、梅棹の問題意識そのものが古いのか。頭をひねるまとめ方になっていたのが残念。

山折氏はじめ古い世代のこともあって「経済=理性、人間=感情」という二項対立で安易に語られていたり、キリスト教と仏教、日本とヨーロッパという対比は、両方に精通したうえで(但しヨーロッパなどというくくり方が既にひどい。もちろん山折氏もイギリスとフランスを念頭に置いていたが)論じる必要があるし、そもそもよくご存じでないことを知っているかのように語ることには、相当な違和感を感じる(自戒もこめつつ)。

ただ家事の邸宅から「全員」を救済する「三車火宅」の話と、人間ではノアの家族「だけ」が救済される旧約の話との対比は、興味深い。

おそらく、日本社会では、どんな状況でも、全員を救うということがデフォルトなのだろう。たとえ稀少な資源の分配をしなければならない状況でも。

そこでは、現実を冷静にみつめ、「冷徹に」犠牲にせざるを得ないことに言及することは忌避される(この点で、救済すべきグループなり、人数を明確に指摘する功利主義への批判が根強いのも理解できる)。

しかし現実には、全員を救えない。「仕方なく」、誰の責任でもない形で、犠牲が生まれ、ただ全員を救おうとした「努力」だけが称賛される。そして、人々は犠牲者に対して哀悼を表す。無常感があらわにされる。ここには結果を論じる余地はない。

無常感は実感として理解はできる。しかし統治者がそれを言ってはいけないし(小泉元首相の「人それぞれ」は無常感の一変奏だろう)、今後、どのように変革すべきかは、無常感に浸っているだけでは生まれない。

これから(ようやく)始まる事故調査だが、既に被災地の救援に関しては、市民のネットワークが微力ながらもとても「光明」を与えるものとなっていることは確かだ。

家庭や保護者に対して働きかけをする事ができること」も挙げられています

TF)を設置するなどして対応の強化に乗り出しました
今回の震災で被害に遭われた方、また現在その救援に携わっている方の無事を祈りつつ、福島の原発の情況がいまだ予断を許さない中、こんな番組があったことを知る。

『隠された被爆労働』(イギリス4チャンネル、1995年)

もちろん現在では結構改善されてきているものの、基本的な構図は変わっていないし、現在作業に従事している労働者も多くは限度ぎりぎりかそれ以上の被爆となっている。

福島の原発での情況はいまひとつよくわらかないままだが、電力会社や経産省の影響の少ないところだと、こんなにもクリアに説明できてしまうのか…。

クリアにすべき情報は、現時点での情況はどうなっているのか。現在行なっていることが成功した場合と失敗した場合、それぞれどうなるのか、その次の対応にはどのようなものがあるのか、それらが失敗した場合にはどのような被害がもたらされてしまうのか、これらをクリアにしなければ、一方で、放射線被爆を恐怖するだけの言説と、放射線被爆はたいしたレヴェルではないとする言説とに二分したままで、不安の渦中から抜け出せない。

このような中、行なわれているのは「協力」と「自粛」という総動員体制である。もちろん協力はどんどんすべきだ。それも適切な形で。しかし自粛にどこまで意味があるのかはあやしい。

ヴェイユ的「祈り」ならばともかく、世界で現に起きている悲惨な出来事に対しては鈍感で、国内的な問題に対してのみ、一時的な「自粛」を行なうのでは、単なる集団的な過剰同調心性の発露としか思えない。そこには、本当に被災者を心配している心情よりも、異質な他者を許容しない狭隘な精神が隠れているだけのようにも思われる。

既に、誰も悪くない、ただ今を一生懸命皆で乗り越えるだけだという免責の言説が幅を利かせている。これは「良いか悪いかは別にして」という常套句でよく語られる私小説的な語りだ。地震は天災だが、原発の事故は人災の側面が濃い。

古い原発の点検を怠り、安全装置の設置を行なわず、津波の影響を過小評価し、そして原発による電力供給のみをひたすら推進してきたことのツケは大きいからだ。この責任は、むろん東京電力、経産省、原子力安全・保安院にあることは明白だ。

地元の買収をはじめとした原発の推進方法はまさに腐敗の温床だ。現在世代だけでなく未来世代に対しても責任を持った生活をするためには、上記3者のつながりを断つことがこの事故の後に行なわれなければならない。

むろん都市部にいる私自身の生活も大いに改めて行く必要がある。少しの便利さのために、電気を消費することで、無用な負荷を自然にも社会にもかけてしまうことは、できるだけなくして行く方向で生活を見直そうと思う。

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さて映画は1982年に持ち上がった中国電力による原発建設で、今も日々、身を挺しての反対運動が行なわれている祝島の人々を撮ったドキュメンタリーである。

反対運動や原発の問題そのものよりも、島民の暮らしに焦点を合わせている。祝島での暮らしはどのようなものであるか、そこからなぜ反対運動が展開されているのか、どのような反対運動と一緒になって日々の暮らしがあるのか。

とりわけ印象に残ったのは、島で一番大きな棚田を子孫のためにと作った平氏の物語。人力が当然だった時代に、機械化される農業を予見し、大きな棚田を作ったという。しかも興味深いのは、孫の代以降はおそらくそれは誰も耕さなくなって、自然の原野にかえるだろうと言っていたというくだりだ。

人間は自然の物を支配するのではなく、ただ借りているのだという意識がそこには強烈に見られるし、自分の行なっていることは自分が生きている時代のことだけを考えるのではなく、過去と未来を包み込んだ時間の流れを意識しているという点は改めて考えさせられた。

映画の後のトークショーで、内山氏が強調していたのも、この点に関わる。これまで過去に行なわれてきたことと、これから行なわれることとを勘案して、今行なわれるべきことが決められるというのは重要だ。

近代の個人主義は、都市化の現象と大いに関係はしていながらも、ひとつには、こうした時間の束縛の負の側面からの解放だった。それが科学技術の発展や日常生活の変容とともに、時間の流れの中にある人間という視点を欠落させて行ったことは事実だ。

しかしだからと言って、そこから共同体の復活を称揚する言説には性急で浅薄な個人主義批判を感じる。個人主義を採用したからと言って、過去や未来と切断されるわけではないからだ。そしてまさに平氏の逸話にあったように、棚田を耕すも耕さないのもその時々の人間の選択に拠るのだという諦観とも達観ともとれる話は、自律を含みこんでいるようにも思える。

もちろん個人主義の定義はさまざまにある。ここでは、日常的な意味で、個人の自律という薄い意味でしかないが、印象的な場面は、本州と繋がっている上関町の人々の態度である。彼らは祝島の人々と異なって漁業で生業をたてなくともよい。だから原発は近くにできるけれども安全だといわれているし、仕事は漁業である必要はない。政府から補償金ももらえるから反対する必要はないというものだ。

ここにはただ日々の生活を支える選択肢の幅の問題があるだけだ。しかし、その場しのぎの選択肢が多いからと言って、その選択が自分の首を絞めることになるのを見通す必要はある。

厄介なのは、映画でも出ていたが、どうせもうすぐ死ぬんだからということで、波風を立てないようにしてしまおうとする老人たちの姿勢だ。

一方で、これからの人々に大切な環境を残していこうというのもまた老人で、それを次の世代が継ごうとしていることに、一条の光明があるのかもしれない。

自発的に練習するようになっていくんです……というお話をしてくださったのは

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福利重視の経済成長のあるべき理念をめぐって、編者の中野氏の論考から、政治・経済・法の気鋭の論者の論考まで、とても読み応えのある書物。

リベラルな個の自由を徹底化させる路線と、孤立した個の共同性を回復させる路線は、両立不可能なのかどうかは置いて、ネオリベ的な人々を労働力としても消費者としても裸の個人と見立てて扱う経済世界において、人々の共同性を立て直すという方向性には大いに賛同できる。

この本が狭義の経済政策でなく国家政策をにらんだものであるということをおさえた上で、気になるのは、3点。

ひとつは、自然環境の位置づけ。これまでの経済成長路線も福利を重視しつつ、手段が目的化したという批判があった。人間の福利を重視するアプローチも、自然環境はやはり手段的な価値しかもたないため、無駄な護岸工事やダム建設が行なわれる「可能性」は(福利アプローチでは僅かだとしても)否定できない。

この点に関連して環境経済学などを専門にしているK氏から聞いて、今更ながら驚いたのは、環境経済学という学問の内容。新古典派的な枠組みの「最適汚染水準」というコトバには、まいる…。いや、もちろんコトバが適切ではないというのではなく発想が…。

もうひとつは、歴史性。一昨晩の諫早湾のドキュメンタリーがあったが、単に貧困はよろしくないという形で相対化するのではなく、これまでの政策によって影響を蒙ってきた人々への対策をどうするのかという点。これからの経済状況をにらんでの理念の提言に、そうした点を織り込むのは難しいのは確かだが、この点をこれからどうすべきかはやはり考えておくべきだろう。

最後は、実行に関すること。これはむろんこの本の中でできることではないが、この本で提言されたことを行なう場合に、どのような戦略というか方向性をとればいいのかということ。

大きなうねりを作るとすれば、政府、地方地自体、企業、NPO、大学、市民など、それぞれの協力関係が必要なことは言うまでもない。しかし、とくに経済的事情を含め個々の論理に従って動く各団体をどう方向づけるのか。喫緊に問題解決のために動かなければならない問題が多いのだから、僅かなところではあれ、早急に実行に移していく必要がある。もちろん、編者の中野氏は問題解決に遅々とした動きを見せる部分に義憤をもちつつ、動かれているようだ。
そのため今後の学校教育では知識・技能の習得だけでなく ワルター チップ交換式ドリル B4213.UF38.445.Z1.133R-7

家庭や保護者に対して働きかけをする事ができること」も挙げられています

高島俊男氏の「『すべからく』の運命」にれば、日本語にはおしまいまでいかないと結論がどうなるか分からない性質があるので、あらかじめ、どのように言い切るかが分かるような「予告語」があるのだという。

断じて、必ずしも、到底、とても、といった言葉は、当然最後に「ない」がつく。

それと同じく、「すべからく」は「~すべし」が末尾にくる。

漢文にあった「須」は、ought toにあたる助動詞で、「すべからく・・・すべし」と二度読みした経緯から、このような用法となる。「未」が「いまだ・・・せず」と読んだようにであるが、須は、同じ言葉の繰り返しなので「けったい」だと高島氏は言う(スベシをク語法にしたのがスベカラクで、その後にもう一度・・・スベシと言うからだ)。

しかし、目にする文章などで、この「すべからく」が出てくると、たいてい「すべて」という意味合いで使っていることが多い。

いや、多いというだけではなくて、正用の方はほとんど目にしない。日本の伝統やら文化を重んじると公言している西尾幹二氏や藤岡信勝氏でさえ、『国民の油断』で誤用しているらしい。

すべからくは、既に誤用が慣用になってしまったのかもしれない。。。

児童虐待防止のための教育や啓発に努めることを求めています

1952年丸山眞男は「ファシズムの現代的状況」という話を信濃町町会でしている(『戦中と戦後の間』所収)。

1950年代アメリカで吹き荒れたマッカーシズムを念頭に置きつつ、ファシズムが自由民主主義の下でどのように生成してくるのかの次第を論じ、もって日本の政治状況に胚胎するファシズムの傾向をいち早く見抜き、指摘した議論である。

ファシズムの定義には様々あるとしながらも、「社会を反革命と戦争のために全面的に組織化しようとする内在的傾向」「社会の強制的同質化」(537頁)と捉える丸山の次の言葉は、現代においてもアクチュアリティーをもっている。

「アメリカのように本来の自由主義の原則が長く根を下ろしていたところでさえ、自由を守るために自由を制限するという考え方は、現在の客観情勢の下ではズルズルとファシズム的な同質化の論理に転化する危険があるとするならば、わが日本のような、自由の伝統どころか、人権や自由の抑圧の伝統を持っている国においては、右のようなもっともらしい考えの危険性がどれほど大きいかは言わずとも明らかであろうと思います。」(548~549頁)

小泉改革はある種のファシズム化を政界においても、一般社会においても進めている。それは彼のブッシュを真似た勧善懲悪的、あるいは幼稚な善悪二元論に明らかで、多様な意見とか、自由を口にしながら、その実、「或る枠の中」での多様な意見と自由でしかない。

「現存秩序の心臓に触れる事柄が公然と論議され対立意見が戦わされる自由があるのかないのか------それが凡そ一国に市民的自由があるかどうか」(541頁)からすれば、彼らの中にはどうもそうした要素は希薄であるステンレス製 耐切創手袋ロングタイプ MST-550 S ミドリ安全 MST550S-7186防寒着 防寒服 作業服 作業着 秋冬用 防寒ブルゾン 自重堂 48233 防水防寒コート(フード付) M〜LL

現在ファシズムと言うとナチスや戦前の日本のような体制のみを指すように一般に解されているが、そうではない。

ここで改めてデモクラシーの意義を見直してみることは重要あろう。

「エキスパートに対する度を超えての無批判的信頼が近代人の特色のひとつだとエリヒ・フロムも指摘していますが、これが政治の分野にまで及んで、政治的無関心を増大させ、デモクラシーを内部から崩壊させて行くのであります。一体、デモクラシーとは、素人が専門家を批判することの必要と意義を認めることの上に成り立っているものです」(552頁)。

「政策を立案したり実施したりするのは政治家や官僚でも、その当否を最終的に決めるのは、政策の影響を蒙る一般国民でなければならぬというのが健全なデモクラシーの精神です。政治のことは政治の専門家に任せておけという主張はこの精神と逆行するものですが、とかく近代社会の分業と

学校では小5くらいから「オレ」と言うようになりました」(14歳・男子の保護者)と回答してくれた人もいました

職人館の入り口

金曜日、某所へ行く途中、職人館のある望月に立ち寄る。かつて天領だったため、江戸弁が残っている所でもあるが、緑に囲まれたなだらかな丘陵地帯である。山を越えると春日温泉がある。ぬめり感の凄い泉質で、静かな山間にある国民宿舎だが、利用率全国第2位だと言われる。

さて、その日は地域振興の勉強会の団体さんが数十人いらしていたので、我々は囲炉裏で、おまかせコースを注文。半丁ほどのお豆腐、チーズがのったキャベツのスープ、湯通ししたいんげん、ふかしたじゃがいも、きゅうりとキャベツの和え物、十割そば、和菓子(望月の卵と蜂蜜をふんだんに使ったどら焼き)、お抹茶。

湯通しして、緑が艶やかないんげんが驚くほど美味しい。
またキャベツのスープに添えられていたディルである。お魚料理に合わせるとフェンネルに似ていてなんとも爽やかな味。画像のディルの花を口に入れると、独特な香りに強烈な甘みを感じて驚く。


そして十割蕎麦である。蕎麦の香りを楽しむには、やはり何も付けずに戴くとよい。団体さんの準備で厨房が大変だったせいか、以前ほどの感動は受けないが、それでももちろん美味しい。ここの御前蕎麦も絶品。是非いただきたいところだ。

今回は団体さんが入っていて、残念ながら北沢さんとはあまりお話できず。。。

それから近くの大澤酒造に立ち寄り、草津で少々道に迷いながら、群馬の某所にある友人のご両親宅に到着。バーベキュー。しっかり下準備をしてくださっていたお陰で、炭火で焼いたステーキはとろけるような柔らかさと香ばしさが相俟って、ビールとともに本当に美味しい。。。

自分自身をなんと呼ぶ?子どもの「呼び名」事情|ベネッセ教育情報サイト確かにそうだろうな!と実感させられたMさんのお話はワルター チップ交換式ドリル B4212.F40.56.Z1.112R-8 ダイジェット アルミ加工用ソリッドエンドミル AL-SEES2260 旋削・フライス加工工具・超硬スクエアエンドミル

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十分かわいがったじゃない」といきなり否定しないほうがいいでしょう
BBCのサイトで、ロンドン同時テロの容疑者の1人、リンゼーがテロの数日前に1千ポンド(20万円)相当の香水を購入していたらしいと知る。香水は爆発物の製造に利用できるそうだ。

またMI5(軍事情報活動第5部隊)は容疑者の1人カーンを事前に調べたが、脅威なしと判断していたらしい。どのような点で脅威があるかないか、判断が難しいところだ。無差別テロは赦し難い所業だが、違法な別件逮捕が常態化している日本では、共謀罪の問題でも指摘されているように、テロ対策の名の下に個人の自由が逼迫させられることは大いにあり得る。

それに加えて巷に溢れるテロ対策のアナウンスや立看板。何とかならないものだろうか。そこには、事態の深刻さを真剣に受け止めて安全を確保しようという気構えはなく、ただ単に通達があったから、そうしているに過ぎないように思われる。

ただアメリカの同時多発テロの際もそうだったが、ロンドンの同時テロから受ける衝撃と、イラクで子どもを殺された親の叫びから受ける衝撃が異なるのはなぜだろうか。惨劇は明らかに後者の方が甚大であるにも関わらずである(もちろん惨劇の深刻さが両者で異なるわけではない)。

ロンドンの同時テロは、被害の実態に始まり、原因究明が詳細に伝えられるが、イラクでの惨劇は米軍の情報統制もあって詳細に伝えられないから、情報そのものの信頼性という点でリアル感がもてないのか(国連で非難されたアメリカのパナマ侵攻しかり)。

或いは、よく言われるように、欧米社会と日本、それに対する中東やアフリカを、我々/彼らの二分法として、区別するからなのか(ここでもまたアジアの位置は微妙だ)。。。

ここで想起されるのは、知り合いの某氏から戴いたP・シンガー『グローバリゼーションの倫理学』(昭和堂)での話である。世界で飢餓や貧困に苦しむ人々のために、余裕のある人が年収1パーセントの寄付をすれば、飢餓や貧困を相当迅速に軽減することができるということをシンガーは提案する。

しかしそれは、この本の原題がOne Worldとなっているように、世界が「一つの世界」と意識されなければ、なかなか実現できないと言う。

倫理的反省の点では、あらゆる人々を平等に処遇すべきということにはたいていの人が同意するにもかかわらず、日常の直観レべルでは近しい関係の人々を優遇してしまう。シンガー自身も批判的なレベルを徹底させることの困難さは認めているようだが、こうした葛藤はもう少し原理的に突き詰めておく必要がある。。。

夕方
ゼミでJ.S. Mill on Civilization and Barbarismを読む。The Spirit of the Age(1831)とCivilization(1836)という初期の論文を軸にして、ミルの文明観、植民論を検討しようというもの。相変わらず某先生の明晰な整理に脱帽。。。

国立で某親友と飲む。右傾化する日本社会にどう立ち向かえばよいのかといった話から、夏休みによく行った八ヶ岳のこと、生活のことなど。。。

ともに児童虐待を防ぐ態勢づくりを考えていきたいものです1月末の中央教育審議会答申 では引き続き業務の削減が提言されましたがG-571 綿100%下ばき手袋(400双) OH 片口大ハンマー#12 OHS12

お子さんは学校など家庭の外でいろいろな人と触れ合い影響を受けて

某MLで「ロンドンでの事件を、私たちは恐れていないと世界に示そう。恐怖のない世界のほうがずっとよいところだと、世界に示そう」というサイトがあることを知る。

恐怖に陥り、アメリカのように反テロの掛け声を上げ、その旗の下に虐殺を行なう愚行は避けねばならない。尤もそのサイトでは議論の場を提供するのが目的ではないので、様々な主張がただ並立している。

目を背けたくなるような恐ろしい出来事に対して、その残酷さを受け止めリベラルな態度を保持するか(シュクラーの「恐怖のリベラリズム」)、逆に自由を叫びながら多くの罪のない人々を死に追いやるのか、思想信条が問われている時代だ。


都内の某宅へ鰻をご馳走に行く。まずこの時期の旬の焼トウモロコシを戴く。甘くてよろしい。次に、冬瓜と麩の煮物、切り干し大根、つるむらさきのおひたし、ホウレン草の海苔巻き、南瓜の煮物、羊肉の水餃子、お漬物、ザル豆腐にエノキの添え物、鰹のタタキを戴いてから(既に満足に近い状態)、鰻重と吸い物を戴く。

普段のおかずの3倍ほどの量だが、美味しいのでどんどん戴ける。驚くのは作られる方の手際のよさで、あれよあれよという間にお料理がお膳に並ぶ。お茶事やお茶会では手際がよいことはとても重要なので、見習わねばと思う。もちろん手際だけよくて心のこもらないお茶は詰まらぬが。

呼び方が変わったきっかけを聞いてみたところ

小中学生の男の子は「ぼく」よりも「おれ」を好んで使っていることがわかります
25日の研究会で報告するために、文献を漁っていて、そういえばと思い出したのが、J.R.Dinwiddy, Radicalism and Reform in Britain, 1780-1850, The Hambledon Press, 1992である。

10年ほど前にコピーしたものをぱらぱらめくると、各章とも案外読んでいて驚く。最近は18~19世紀の植民地論に興味があるので、ベンサムの人間観について、マルクスと比較検討している論文を取り上げることに決めた。

功利主義の植民地論の最近のトレンドは、ベンサムとミル父子とを区別して論じる傾向にある。典型的なのが、Jennifer Pitts, "Legislator of the world?" in Political Theory,
vol. 31, no. 2, April 2003, pp. 200-34.で、今度某ゼミで読むMichael Levin, J.S.Mill on Civilization and Barbarism, Routledge, 2004もそうした議論を展開しているらしい。

ベンサムとミル父子とを分かつメルクマールは、植民地の住民に自律という価値を啓蒙する必要があると考えるかどうかに拠るようだが、スコフィールドの「ベンサムの植民地、商業、憲法論」(池田和宏訳)『成城大学 経済研究』第148号、2000年では、ベンサムも植民地住民の自己統治能力の有無という観点から植民を容認する立場にあったとしている。

これらの議論には、ベンサムが人間の改良可能性についてどのように考えていたかという問題がある。今度の研究会で報告しようと考えているディンウィディのBentham and Marxという論文で興味深い一節は、ベンサムは人間の改良可能性を信じていたが、完成可能性は信じていなかったという点。この問題について、研究会では議論しようと思う。。。

シュルーズベリーを流れるセヴァーン川にあるパブ
そういえば、上記のミルの研究書をイギリスの古書店に注文すると、3日ほどで手元に届いた。当の古書店は利用者の評価では5ッ星がついていて、迅速丁寧とのうたい文句であったが、まさにその通りで、難を付けるとすれば本がビニールに包まれていなかったこと。雨の時などは本が汚れるので、これはしてもらいたかった。

ただ古書店の住所を見ると、Sherewsburyの古書店であった。この町はウェールズやマンチェスターに近いイングランド北西部にあり、天候がコロコロ変わる英国にあって、最も天候の変わる一帯のそばにある。チャールズ・ダーウィンが幼少期を過ごしたところでもあるが、2001年の8月に2週間ほど滞在したことがあって思い入れがあるところだ。

近頃は、こうしたサイトがあるので洋書の古書検索の手間が相当省ける。
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夕刻、ピエール・フルニエが1972年に虎ノ門ホールで行なったバッハ無伴奏組曲、第1、3、5番のライヴ録音を聴き流す。中野雄さんが襟を正して聴かないといけないような雰囲気をもっていると評したフルニエだが、「気品」ある演奏という評価に同感。

彼がナチス占領下のフランスに敢えて留まり、活動を続けたという事情も聴く者に気骨さや精神性といったものを感じさせる要因かもしれない。尤も技術的には最近のチェリストに劣るのかもしれない。しかし昨今のコンクールでの競争が災いして技術至上主義に堕している傾向からすれば、フルニエの演奏は内面的に訴えかける(このような曖昧な表現はよくないのだが)素晴らしい演奏である(途中の重大なミスは置いておくとして…)。
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